半端な言葉を書き殴る。


by kodomoking
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以前、TVを眺めていると、オーケストラが放送されており。
多くの楽器から成る演奏に心耽って。
音色やメロディ、組み合わせなんかだけで表現するなんて凄いことだよなぁ。なんて。そんな風なことを思っていると。

突然。 演奏の中に、風の音が挿入された。 具体的な風の音だった。
その瞬間、僕の中にあったアヤフヤなイメージは、一つのストーリーを創造した。

僕は興醒めして、チャンネルを変えた。



僕は昔から、具体的に、直接的に表現されるものを避ける傾向があるようで。
まるで僕等は皆、同じ様な事を考え、経験し、物思うのですよと語りかけてくる具体的な歌詞や、忠実な描写画、目的のハッキリしたデザイン等を特別好むことはなく。

例えば。
コラージュ作品の様な、直接的に連想させられる「人物」や「背景」など、具体的なものが貼り付けてある表現や。
トラック音楽の中に、「扉の開く音」や「水が滴る音」などが挿入されたインストものなども、興味がなかった。


「ギター」ならば、「ギター」で。 「バイオリン」なら「バイオリン」で。 「歌声」なら「歌声」で。
自分の六感全てによって感じたものを表現された形に魅かれていた。




しかし、最近。
僕は、適した時に、適した場所に、適した組み合わせを用いて選択された具体的な表現に魅かれている。 気がする。


以前ならば、 「DJはアーティストか?」と問われれば、「No」だった。 恐らく。
すでに存在するものを変化させたり、組合すことは「表現する」というカテゴリーにうまく分類できないと感じていた。
だが、今の考えでは、環境に応じて組み合わせること、自分の方向性に応じて選択することは立派な表現手段だと考えている。

クリエイティブな部分では、相変わらず半信半疑ではあるものの。
アーティストとしては、選択すること、表現を抽象的なものと具体的なものを組合すことなどは制作活動であり表現活動だ。





さて。
このことにおいて僕が考えることは。
ここに一曲の美しい音楽があるとして。 メロディーと音色以外のものは一切ないとして。
そこにタイトルを付ける事にする。
例えば『愛』。  個々が具体的なイメージを浮かべるタイトルが付くと、聴き手の中では一気に曲の印象が変化するのではないか?
例えば『絶望』。 ネガティブな思考が様々な美しい音色と結びつき、その美しさが皮肉となって心に突き刺さりはしないだろうか?

そこから、聴き手は作り手の意図を感じるわけであり。 もちろん、個々の背景を消化した上で。

その意図が見えにくいものを、以前の僕は「深い表現」とし、好んで追い求め。
意図が見えてしまうものを「浅い表現」として避けていた。



なぜ今、この「浅い表現」に興味を持った僕がいるかというと。
きっと、主張は誰かに伝わってこそ更なる展開を見せ、成長していくものだと認識した僕が存在するからだと考えている。





Sigur Rós -()
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Sigur Rósに関して何を知るわけでもないが、題を気分に応じて変化さすことで、捉え方は全く異なる。抽象画を連想さす様な方向性の果てを想像してみると、それはそれで面白いが、そこから振り返ってみると、具体的な何かに、ストレートな形にこそ面白みが在る気分にさせられる。
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by kodomoking | 2007-12-29 07:52 | rock